私の過去

を書きます。自己分析の一貫です。大分長い
。3歳上のテキトーに生きてるおねいちゃんがいます。
■西暦199○年 爆誕
■幼稚園児(年少) 周りが曲に合わせて踊っているのを、それに何の意味があるのかわからなくて、突っ立っていた。この時、障害の診断を保育士に勧められたようだが母親はそれを華麗にスルー。まぁ、幸せの絶頂期だったのだろう。
あと、体に泥がつくのが嫌で泥遊びはしなかったし、裸にもならなかったのを覚えている。木登りと白い花の蜜は好きだった。
周りが曲に合わせて踊る意味がわからなかったのは、恐らくそのようなテレビ番組を見ていなかったからだと考えられる。流石に、当時見ていたテレビ番組はわからないし、今更なので後で親に軽く聞く程度に留める。
■幼稚園児(年長) 左足を自転車の後輪に巻き込まれ全治一ヶ月の重傷?。白いものが見えていたが、恐らく皮下脂肪である。年少組を寝かしつけるために、布団の上から「トントン」と叩く時間が好きだった。
■幼稚園児の頃、集団でやる遊びをやった覚えがない。やったことがあるのかもしれないが、強烈な記憶としては残っていない。
■小学1年生 覚えたてのリコーダーを披露しに、帰りに幼稚園に寄る日々が続くが、梅雨の時期、雨の日が連続しめんどくさくなり以降は消滅。
■小学3年生くらい 小便のために目覚めたとき、親が怒鳴りあっているのを目撃する。
■小学5年生 親が別居、週に1回母親の元へ通う日々。この頃はお姉ちゃん子&おじいちゃん子だった。お姉ちゃんの下校には時間が合えば必ずお供していた。お姉ちゃんが馬鹿にされたことで怒り、喧嘩をするほど。
■小学6年生 校区が変わらない程度に転居。オナニーを覚えた。学校にいきたくなくなった(眠くて)。それでも引っ張って行かされた。いい母親である。
卒業式の日に、女の子に体臭が臭いと言われているのを聞いてしまう。以降朝風呂派に。(もっとはやく言えよ...)
親が離婚、選択を迫られたが、安定択を取り母親の元へ。
後から考えてもこれは悪い選択ではなかったように感じる。
何故なら父はおちん○んがある限り種を蒔けるから、必要とあらば(相手がいれば)作ればいい。
同じ男だからわかるが、子供に情が湧くことはあっても愛着はあまりないだろう。生物としてそういう風にできているように思う。
しかし、母は子供がいなければ母足り得ない。子供を取られた母が次にどのような行動をするのかわからない。少なくとも私はそう思う。
■小学生の頃の私は勉強が出来ていたようだ。学校で成績1位を争っていたらしい。その頃母親に宿題をなぜやるのか聞かれたことがあるが、「やらないといけないから」と答えたのを覚えている。恐らく周りがやっているからやらないといけないと思っていたのだろうが、思っているより周りはやってなかったと思うよ。家にはwin95のPCがあったが商人物語(放置ゲー)を姉に教えてもらいながらやっていた。女の子の幼馴染みが2人いて家族ぐるみの付き合いもありよく遊んでいた。その幼馴染みとは中学で疎遠になった。
思えば、この頃からグループワークは不得意だった。
■中学2年生 この頃、恐らく第2のお父さんが出来た。
■中学3年生 初恋のようなものをするが、告白せずに終わった。
■中学から勉強しなくなった。宿題があまりなく自主的な勉強が求められたが、自主性はなかった。塾にもいったが、結局は自主性が求められるのだ。自己管理法を教えて頂きたかったものである。普通の中学生ならこの頃には身に付いているものなのか?あと、ネットゲームにハマってしまった。今も続いている唯一無二の友達が出来た。部活には入らなかった。
■高校1年生 第2のお父さんを紹介されたのは確かこのくらい。私が人生で最も感謝を捧げ、最も罪悪感を感じている人物である。何故なら、中学時代の生活に安定をもたらしてくれていたのは明らかにこの人であるし、またこの人には実子がいないからである。いや、精確には我が母との間に「いた」のだが...。年齢も年齢だったし仕方ないと言えば仕方ないのだが、この時の母は離婚したときよりも辛そうだったのを覚えている。(隠していただけかもしれないが)
罪悪感は私の考えであるが、第2の父ほどの徳を持つ人がその血を後世に残せないというのは非常にもったいないことで、母と結婚したことによってそれはほぼ間違いないからだ。もったいないことをすることに罪悪感を感じるのは日本人なら普通じゃないだろうか?もちろん、第2の父が現状に満足している場合これは余計なお世話となる。私に彼女がいたら、今すぐ第2の父の子を孕ませたいくらいにこの感情はある。
■高校は、偏差値40くらいの公立高校に進学した。滑り止めとして45くらいの私立も受けて合格したが、50未満なんて全部同じようなものだろう。金銭事情から私立には個人的な思いで行けなかったし、中学の時大して勉強もしていなかったので55くらいの公立を受けるのはリスキーすぎた。よって、この時の判断は正しいと言える。
しかし、この高校時代が肉体的に最も辛かった。この高校は30度くらいの坂に反りたつようにして在るのだ。駅から20分間自転車を漕ぎ続け、最後に急斜面。インドアを徹底してきた私には一番の試練で、これを3年間続けたというのは私の人生において最も誇れることであると確信している。部活は得意というほどでもなかったがとりあえず泳げるので水泳部に入った。真面目な部活ではなかったのでちょろかった。大学受験のために塾にもいったが、この時未だ自主性は身に付いていないのである。100万ほどかけてくれたようだが、ほぼ無意味。ビデオ授業だったので後半はほぼ全編寝ていた。
■大学2年生 おじいちゃんが亡くなった。思っていたよりショックは感じなかった。予め死にそうな所を見ていたからだろうか。それか、元気な時を見たのが数年前だからか。
■大学は勉強せずに入れそうなところに入った。お金のかからない国公立がよかったが、ハードルを認識したときには遅すぎた。大学では特筆すべきことはない。大学で出来た友達がガチのマジで0人なことくらいか。あまり勉強しなかったので留年して、今に至る。